私を分つもの

人体は酸素65.0%、炭素18.0%、水素10.0%、窒素3.0%、カルシウム1.5%、リン1.0%、少量元素0.9%、微量元素0.6%、その他枝葉末節な諸々で構成されているそうだ。

人間の元素組成は海に似ているらしい。
では、私は海なのだろうか。

「あなたは海ですか?」
と聞かれたら、
「私は海ではありません」
と答える。

なぜだろうか。私は、「私は海ではない」という明確な根拠を持ち合わせていない、にも関わらず「海ではない」と確固たる自信にもとづき答える。私と海を客観的に比較し、「いや流石にどう見ても海ではないだろ」と言えるからだろうか。では、なぜ「どう見ても海ではない」と言えるのだろう。

私と私以外を分かつもの、あるいは私を保つもの、それはなんなのだろうか。

私には「私とは2つの私が重なった状態だ」という感覚がある。

「2つの私」とは以下のことを指す。

  1. 手と足があり、目・鼻・口・耳などで構成された顔があり、生年月日があり、氏名があり、戸籍があり、職業がある私。鏡を見てそれと分かる、他者から認識される存在としての〈私〉、私の社会的主体・実存。
  2. このクオリアを持つ私、脳神経・脊髄からの電気信号がもたらす意識や反応を"超えた"この「これ」、あるいはこの「魂」、まさしく「私」が「私」であるとしか言い得ないこの《私》という感覚。

〈私〉と《私》は違う。
まさしく私と海が異なるのと同じように、〈私〉と《私》は違うだろうと、無根拠に、しかし確固たる自信にもとづき答える。

そして(すべからく)疑問が生じる。

〈私〉と《私》を分かつものはなんなのだろうか?
《私》が〈私〉に内包されている必然性はあるのだろうか?(あるいは「蓋し然り」なのか、であればその"恣意性"はどこから来たのか)
《私》はどこの誰なのだろうか?または「誰」かであり得るのだろうか?

近代言語学の父ことフェルディナン・ド・ソシュール*1は、『言語』を通時言語学/共時言語学、ラング/パロールシニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いて解体し、『言葉とはそれ自体に意味を持たず、ただ差異だけが意味を持つ』と提唱した*2

私と海の差異(区別)、それは『言語』によってのみ示唆される。では、この胸中を蠢く〈私〉と《私》の分離感、これがもし『言語ゲーム』においての差異(分離)に過ぎないのだとしたら、【言語の外】において《私》は、なんら区別されない(≒存在しない)ことになる。私にとっては明晰に、狂おしいほどに異なる〈私〉と《私》、こいつが何者なのかを知るためにこそ生き、そのためなら文字通り死すら躊躇わないこの《私》。

もしこいつの正体が、単なる【言語に囚われたゴースト】なのだとしたら、私は一体なんのために命をかけるのだろう。

私は海ではない、但しそれは【言語の中】においてのみ、海ではないと言える。
〈私〉と《私》は違う、但しそれは【言語の中】においてのみ、違うと言える。

裏を返せば、一歩でも【言語の外】に出れば、〈私〉も、《私》も、あなたも、海も、犬も、猫も、ウサギも、熊も、花も、蝶も、鉄も、金も、生も、死も、全ては同一とも言える(この考えは仏教における梵我一如*3と通ずる、ような気がしないでもない)。

【言語の外】にはただ自然が横たわっている。自然界では、自己と他者の差異は読んで字のごとく消失する。一方で、手を伸ばせば何かがある。野ウサギに触れれば温度を感じるだろう。そこには確かな「へだたり」がある。言語を超越した先で感じる「へだたり」、それこそが「存在」の本質なのだとしたら、【言語の外】でこそ《私》の本当の姿(あるいはゴーストなのか)を見定められるのではないか…そう思えてならない。

そして願わくば他者にもこの得体のしれない《私》が宿っていて欲しいと思う。シモーヌ・ヴェイユは著書『重力と恩寵』にて、「愛するとは、他者の存在を信じることだ」という言葉を残した。私はこの言葉が本当に好きだ。愛の本質とは、自己の、他者の《私》を信じ、尊重することではないか。そして愛こそが《私》を保つもの、なのかもしれない。


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*1:ソシュールの唱えた「一般言語学」は学会に多大な衝撃を与えました。その代表例が「構造主義の祖」として知られるレヴィ=ストロースです。レヴィ=ストロースは一般言語学の思想・方法論を用いて「構造こそが人類に備わった普遍的なものである」と主張。そうして体系化された「構造主義」は、今日の我々に"常識"として深く根差しています(詳しくは構造主義で検索)。

*2:よく分からない、という方は「蝶と蛾」をイメージすると良いです。日本語では「蝶と蛾」はそれぞれ言語(概念)によって区別されていますが、フランス語では両者を指し「Papillon」と言います。これは、フランス語圏では蝶と蛾を「区別する必要(意味)がない」ものとしている証左であり、かつその区別は恣意的である(≒人類共通の概念は存在しない)ことを示しています。

*3:梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一であること、 同一だと知る、気づく、悟ること。