私を分つもの

人体は酸素65.0%、炭素18.0%、水素10.0%、窒素3.0%、カルシウム1.5%、リン1.0%、少量元素0.9%、微量元素0.6%、その他枝葉末節な諸々で構成されているそうだ。

人間の元素組成は海に似ているらしい。
では、私は海なのだろうか。

「あなたは海ですか?」
と聞かれたら、
「私は海ではありません」
と答える。

なぜだろうか。私は、「私は海ではない」という明確な根拠を持ち合わせていない、にも関わらず「海ではない」と確固たる自信にもとづき答える。私と海を客観的に比較し、「いや流石にどう見ても海ではないだろ」と言えるからだろうか。では、なぜ「どう見ても海ではない」と言えるのだろう。

私と私以外を分かつもの、あるいは私を保つもの、それはなんなのだろうか。

私には「私とは2つの私が重なった状態だ」という感覚がある。

「2つの私」とは以下のことを指す。

  1. 手と足があり、目・鼻・口・耳などで構成された顔があり、生年月日があり、氏名があり、戸籍があり、職業がある私。鏡を見てそれと分かる、他者から認識される存在としての〈私〉、私の社会的主体・実存。
  2. このクオリアを持つ私、脳神経・脊髄からの電気信号がもたらす意識や反応を"超えた"この「これ」、あるいはこの「魂」、まさしく「私」が「私」であるとしか言い得ないこの《私》という感覚。

〈私〉と《私》は違う。
まさしく私と海が異なるのと同じように、〈私〉と《私》は違うだろうと、無根拠に、しかし確固たる自信にもとづき答える。

そして(すべからく)疑問が生じる。

〈私〉と《私》を分かつものはなんなのだろうか?
《私》が〈私〉に内包されている必然性はあるのだろうか?(あるいは「蓋し然り」なのか、であればその"恣意性"はどこから来たのか)
《私》はどこの誰なのだろうか?または「誰」かであり得るのだろうか?

近代言語学の父ことフェルディナン・ド・ソシュール*1は、『言語』を通時言語学/共時言語学、ラング/パロールシニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いて解体し、『言葉とはそれ自体に意味を持たず、ただ差異だけが意味を持つ』と提唱した*2

私と海の差異(区別)、それは『言語』によってのみ示唆される。では、この胸中を蠢く〈私〉と《私》の分離感、これがもし『言語ゲーム』においての差異(分離)に過ぎないのだとしたら、【言語の外】において《私》は、なんら区別されない(≒存在しない)ことになる。私にとっては明晰に、狂おしいほどに異なる〈私〉と《私》、こいつが何者なのかを知るためにこそ生き、そのためなら文字通り死すら躊躇わないこの《私》。

もしこいつの正体が、単なる【言語に囚われたゴースト】なのだとしたら、私は一体なんのために命をかけるのだろう。

私は海ではない、但しそれは【言語の中】においてのみ、海ではないと言える。
〈私〉と《私》は違う、但しそれは【言語の中】においてのみ、違うと言える。

裏を返せば、一歩でも【言語の外】に出れば、〈私〉も、《私》も、あなたも、海も、犬も、猫も、ウサギも、熊も、花も、蝶も、鉄も、金も、生も、死も、全ては同一とも言える(この考えは仏教における梵我一如*3と通ずる、ような気がしないでもない)。

【言語の外】にはただ自然が横たわっている。自然界では、自己と他者の差異は読んで字のごとく消失する。一方で、手を伸ばせば何かがある。野ウサギに触れれば温度を感じるだろう。そこには確かな「へだたり」がある。言語を超越した先で感じる「へだたり」、それこそが「存在」の本質なのだとしたら、【言語の外】でこそ《私》の本当の姿(あるいはゴーストなのか)を見定められるのではないか…そう思えてならない。

そして願わくば他者にもこの得体のしれない《私》が宿っていて欲しいと思う。シモーヌ・ヴェイユは著書『重力と恩寵』にて、「愛するとは、他者の存在を信じることだ」という言葉を残した。私はこの言葉が本当に好きだ。愛の本質とは、自己の、他者の《私》を信じ、尊重することではないか。そして愛こそが《私》を保つもの、なのかもしれない。


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*1:ソシュールの唱えた「一般言語学」は学会に多大な衝撃を与えました。その代表例が「構造主義の祖」として知られるレヴィ=ストロースです。レヴィ=ストロースは一般言語学の思想・方法論を用いて「構造こそが人類に備わった普遍的なものである」と主張。そうして体系化された「構造主義」は、今日の我々に"常識"として深く根差しています(詳しくは構造主義で検索)。

*2:よく分からない、という方は「蝶と蛾」をイメージすると良いです。日本語では「蝶と蛾」はそれぞれ言語(概念)によって区別されていますが、フランス語では両者を指し「Papillon」と言います。これは、フランス語圏では蝶と蛾を「区別する必要(意味)がない」ものとしている証左であり、かつその区別は恣意的である(≒人類共通の概念は存在しない)ことを示しています。

*3:梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一であること、 同一だと知る、気づく、悟ること。

『ポケモン』は実存に先立つのか

ポケモンの新作が発表されましたね。

…などと、あたかも新作タイトルの発売を待ち望むいちファンとして皆様のお気持ちを代弁、といった塩梅の書き出しをした手前恐縮ですが、私は同タイトル作品は金・銀を最後にプレイしておらず、直近作品や近年の動向について把握していません。

そんな立場で「いや~ついに発表されましたね~これは期待ですね~」などと、そこかしこで雨後の筍のごとく見受けられるゲーム系YouTuber(ゲーム系って何という感じだけど便宜上)がいかにも発しそうな、毒にも薬にもならない極めて些末な、その発言によって何も世界は変わらないし引き続き人類は互いを殺し合い大地を舐り続けること自明な、しょーもないことを宣う気は毛頭ありませんし、ましてや私のポケモンへの理解力は上述通りですから、雨後の筍系YouTuberと比較し当該タイトルにおける情報力では衰えていると言わざるを得ず、そうした状況下で同様の発信を行うことはすなわち「私は発信者として"下"の"下"である」と喧伝することになりかねないので、とどのつまり雨後の筍より下にはなりたくないです。

だとしたら、この記事の目的は何か。

それは「ポケモンポケモンと呼ぶのおかしくない?」という疑問が生じたため、ひとつ考えをまとめてみようではありませんか、というものです。

ちょっと考えてみて欲しいのですが、『ポケモン』という呼称、おかしくないですか。
ポケモン』とはモンスターボールに出たり入ったりするモンスターの総称、という理解なのですが、どうも違和感がぬぐえません。

「前後があべこべではないか?」という違和感を、『ポケモン』という言葉から感じるのです。

この段階でもう結構な数の同意を得られるのでは?と思っているのですが、どうでしょう。あるいは「かような疑問を呈されたとて、私がポケモンについて何らかの言及をする際に、ポケモンという呼称を用いることについてなんら疑いの余地無し」という感じでしょうか。

私が感じた疑問・違和感を説明するためには、『ポケモン』こと『ポケットモンスター』は、なぜ『ポケットモンスター』と言うのか、語源から紐解く必要があると思いますので、ちょっと考えていきます。

まず、『ポケットモンスター』という言葉(単語/名称)は『ポケット』と『モンスター』の2つで構成されている熟語であると言えます。

『ポケット』とは、辞書によると

①衣服などに縫いつけた袋状の小さな物入れ、隠し。
②形状が1に似たくぼみ(ビリヤードの球台の受け穴など)

を指す言葉であると定義されており、より解釈を進めると「携行可能な」という意味合いであると言えそうです(これについて疑問の余地はないかと思います)。

次に『モンスター』ですが、本稿で展開したいことと直接的な関連性はないため、そのまんま『モンスター』で問題ないのですが(実際に以降も『モンスター』と記述)、ついでだからせっかくなのでの精神により辞書を引いたところ、以下のように記載されておりました。

①怪物。化け物。
②巨大なもの。
③圧倒的な存在感や影響力をもつ人や物。

①怪物・化け物については、『ポケモン』は可愛らしい容姿をしている個体が多いことからも(可愛いではないにしても格好良いとかファニーとか)、ちょっと大袈裟というか、強いなと感じます。また②巨大というには大きさも多様です。③に至ってはまず人・物品ではありませんし、「圧倒的な存在感」とするにはあまりに個体差があります。
その上で解釈を進め、『モンスター』とは「(現実世界の)生物学では定義できない、なんかちいさかったりでかかったりするかわいいやつ」であるとします。まぁこれについては別解釈の余地が多分にありそうですが、先に述べた通り本稿と直接的な関連性はないためこの場では問題なしとします。

さて、以上を踏まえ『ポケットモンスター』という言葉(本質)を定義すると

携行可能な、なんかちいさかったりでかかったりするかわいいやつ*1

となります。

しかし、おかしいですよね。「携行可能」とされていますが、これって「モンスターボール」の存在(発明)によって実現された要素です。なぜ『ポケモン』の実存(存在)ありきで開発された「モンスターボール」によって、『ポケモン』が定義されているのでしょうか

これって不合理で、上述の「前後があべこべではないか?」という違和感の原因はここにあるな、と思うわけです。

「ちょっと何言っているか分からない」という方のために、もう少し詳しく解説します。
上述で紐解いた語源の通り、『ポケモン』が『ポケモン』となった理由は、<人類と『モンスター』がそれぞれ別の世界観で存在していた自然界に、『モンスターボール』が持ち込まれたことにより、両者が"関係"するようになった>ためと考えられるのですが、これがおかしいのです。
『モンスター』を携行可能な『ポケモン』にするための存在である「モンスターボール」のもたらす作用が、「モンスターボール」が開発される以前より自然界に実存していた(はずの)『ポケモン』の"本質"になってしまっていることで、先天的な要素Aによって生じる後天的な要素Bにより、先天的な要素Aが定義されるという、本質のもたれかかりとでもいうべき事象が生じているのです*2

考えれば考えるほどおかしな話ですね。モンスターボール開発以前、人類は『ポケモン』のことをなんと呼称していたのでしょうか

では、『ポケモン』を『ポケモン』と呼称するに足る合理的シチュエーションは存在するのか?存在するとしたら具体的にどういった状況かを検討し、3つの仮説を立ててみました。

  1. ポケモン』とはあくまで俗称であり、学術的には全く異なる名で呼称されている
  2. モンスターボール」の開発が先行されており、後から『モンスター』が自然発生的に顕在化した
  3. 『モンスター』は自らを携行可能な状態に変質させる能力を備えており「モンスターボール」はその性質を利用している

1.『ポケモン』とはあくまで俗称であり、学術的には全く異なる名で呼称されている
1については、コンテンツ内で説明されていないが裏設定として存在する、もしくは私が把握していないだけでコンテンツ内で言及されている可能性は十分にあり得ます。その場合については「知りませんでした」としか言いようがないので、もしご存知の方がいれば教えていただきたいです(もしこの1だったとしたら本稿は大変な茶番、単なるいちゃもんになりますので即謝ります)。

2.「モンスターボール」の開発が先行されており、後から『モンスター』が自然発生的に顕在化した
2については、『ポケモン』が『ポケモン』であることに関する観点では合理的と言えそうですが、そもそも「モンスターボール」の開発が先行とはどういうことですかね。
「何に役立つか知らんけどなんか作ってみた」ということでしょうか、それはありえないでしょう。人間は本質的に「意味のないもの(目的のないもの)」を作り出すことは出来ないからです*3
私の理解度の範囲内でさえ、ポケモン(モンスターではなくコンテンツそのもの)の世界における「モンスターボール」は、『ポケモン』を捕獲・携行するために徹底的に最適化されているとしか考えられない描写が多々見受けられます。これについては火・水はては幽体に至るまで、身体構造や構成要素が多岐にわたる『ポケモン』を一括りに捕獲できることからも自明です。
食料・水・衣類といった必需品をボールに格納し携行していないことからも、『モンスター』のみを捕獲・携行することを目的に開発されていることは事理明白で、そうした質の高いプロダクトを生み出すには対象への極めて仔細な研究が必須、ましてやなんの目的もなく惰性で開発していたプロダクトを転用して為せる仕事ではないことは火を見るよりも明らかです。
では、<当初あらゆる物品を携行できる便利なプロダクトとして開発・運用していたが、新種の生き物(モンスター)が顕現(発見)されたことを機に、モンスター捕獲に最適な仕様に変化した歴史がある>と仮説立てするとどうでしょう。これについては「ボールでの物品運搬はモンスター顕在化(発見)を機にやめたのかよ」というツッコミが入る余地があり不合理と言えそうです。人間は一度手にした利便性をそう易々と手放すことは出来ない生き物なので、仮にそうだったとしても、モンスター捕獲用と物品運搬用とで分かれて発展していくのが合理あると考えます。
<ボール製作に必要な物質(鉱物など)が希少であるため、合理的判断に基づきモンスター捕獲用にのみリソースを費やす方針とした>という可能性を検討しましたが、これも無いと言えそうです。「モンスタボール」は作中のお店にて、学生でも購入可能なほど安価で販売されており、希少価値の高い物質で構成されているとは考えにくいからです。
つまり2に関しては、2の状況それ自体が不合理であるため、やはり『モンスター』の捕獲のために「モンスターボール」を開発したと考えるのが妥当である、と言えそうです。

3.『モンスター』は自らを携行可能な状態に変質させる能力を備えており「モンスターボール」はその性質を利用している
私としては、3はある程度は納得できるのですが、作中でそれらしい言及はあるのでしょうか。少なくとも私は存じておらず、かつ調査しても特にそれらしい記述は見受けられませんでした。
また、この説に則ると、そもそも何のために携行可能な状態に変質する能力を得たのか、という新たな疑問が発生します。生物は進化の過程において、自らの生存を図るためのアップデートを重ねますが、「携行可能な状態への変質」がどういった生存戦略に繋がるのかが不明瞭です。
仮にその不明瞭な要素がクリアとなり、<あらゆる種(犬とか鳥とか)のうち、人類との共存を望んだ個体が携行可能な能力を有するようになり、現在の『ポケモン』に至った>などと議論を展開させたところで、ちょっと苦しいように思います。その場合、『伝説のポケモン』の存在について説明がつかないからです("伝説"なので存在すら曖昧=未だかつて捕獲した経験がないのになぜ「携行可能」と判断できるのか?)。
以上のことから、3はある程度の説得力は有しているとは思いつつも、メタ的視座(いちユーザー)による後付け・こじつけの域を出ず、私の抱える疑問・違和感の答え(真理)には至っていない、と結論づけざるを得ません。

仮説検証の結果として、1が成立した場合を除き、『ポケモン』を『ポケモン』足らしめるのは「モンスターボール」であり、かつその「モンスターボール」は『ポケモン』という実存ありきで開発されている、と結論を導く他なく、先に記述した本質のもたれかかりともいうべき問題との衝突は免れないこととなります。

かの実存主義の哲学者ジャン=ポール・サルトルは、「実存は本質に先立つ」という言葉を残しました。存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだ、という考え方です。

しかし、こと『ポケモン』については「本質が実存に先立つ」状態と言えそうです。

これは不合理なのか、または合理なのか…今後も追及していきたいと考えております。

ちなみに起稿時では、今回展開した問いから「モンスターたちの"クオリア"が蔑ろにされているディストピア的世界」という話に発展させるぞ~!と息巻いておりましたが、存外長くなったのでそれはまたの機会にします。

一応本稿の狙いはウケ狙い「哲学的問い」であるため(にしてはところどころ稚拙であるかと思いますが)、異論や反証は願ってもない機会ですから、すべて謹んで受け付ける所存です。

ただし「哲学的問い」と明記した以上、「そんな事どうでもいい」とか「それ考えて何に役立つの」とか、そういった類の異論は受け付けませんのでご了承を…。

2024/02/29追記:友人から「ポケモンはあくまで電子的な存在であり、過去または現在、人間によって作られた存在(拡張現実を進化させたようなもの)ではないか」との意見をいただきました。その点については全く考えが及んでいなかったので、まさに目から鱗です。ポケモン=(人為的な)電子的存在と仮説立てすると、あらゆる疑問に説明がつく気がしていますので、引き続き調査および思索を深めていきたいです(なんなら原作にもそれっぽい言及あるのでは?と思うほどに説得力溢れる説だよなあ…)。

2024/02/29追記②:上記に関連する文献を発見しました。2001年に作成されたページの模様です。特にドリル番長さんの「メタモンポケモン原種説」は大変興味深い。先人たち(?)も同様の疑問に衝突していたのだな、と思うと感慨一入。
ポケモン学 ポケモンの起源に関する考察

2024/02/29追記③:①について調査したところ「人工ポケモン」なる存在に出会しました。よくよく考えると、そのような説明がなされた『ポケモン』が、幼い頃にプレイした赤Verにも登場していたな、と…。「人工ポケモン」は対義的な存在「非人工(自然)ポケモン」あってこその存在と言えるため、①の説はより慎重に思索を進める必要がありそうです。ちなみに「人工ポケモン」とはミュウとかミュウツーとかポリゴンとかのことですね。

*1:一説によると、ゲームフリーク社は当初ゲーム名を「カプセルモンスター」にしたかったが、カプセルモンスターは既に商標登録されていたために使えず、そこで「ボールに収納すればポケットに入るから」ポケットモンスターにした、と関係者のインタビューで語られていたそうです。出典不明のためあくまで俗説として。

*2:「てめーは何を言っているんだ」という方のために、より分かりやすく、かつ誤解を恐れず俗っぽく例えますと、『ポケモン』を『ポケモン』とすることとは、ハムスターを「籠入りネズミ」と"学術的に"呼称するのと同義ではないか(籠とはハムスターと人類の"関係"によって生じる謂わば後天的な要素に過ぎず、ハムスター自体の本質とは無関係)、と言いたいのですが、伝わりますかね。

*3:例えば今この場で「無意味なもの」を作ってみてください。ガムテープの接着面同士を貼り合わせたもの、ビニール袋の口と口を繋いだもの、何でもいいです。さて、作り出したものは「無意味」と言えるでしょうか、言えないですよね。なぜなら「無意味なものを作る」という意味(目的)において「有意味」だからです。これは価値(外在的・内在的)に置き換えても同様です。この不可避のロジックにて、人間は「本質的に無意味なもの」を作り出すことは出来ないと言えます

映画『CATS』を観た

CATS

■国内公開日:2020年1月24日

■キャスト
監督:トム・フーパー
出演:ジェームズ・コーデン、ジュディ・デンチジェイソン・デルーロイドリス・エルバジェニファー・ハドソンイアン・マッケランテイラー・スウィフトレベル・ウィルソン

■あらすじ

満月が輝く夜。ロンドンの片隅のゴミ捨て場。個性豊かな“ジェリクルキャッツ”が集まってくる。今宵は新しい人生を得ることが出来るたった一匹の猫が選ばれる特別な夜。一生に一度、一夜だけの舞踏会の幕が開く…。

 

■感想 ※若干のネタバレあり

目の前で展開される舞台作品を現実とするなら、カメラで撮影し様々な編集を加えた映画は虚構である、と言えると思います。

例えば黒子や場面転換、宙を舞うためのロープは、舞台であれば許されますが、それは観客含め「これは舞台だ」という共通認識=お約束が前提にあるから、そんなことにいちいち突っかかるような人が存在しないからです(そんな人は舞台鑑賞は不向きだと言わざるを得ない)。舞台という作品を成立させるにあたり、この前提の有無は非常に大きいです。

何が言いたいかというと、舞台(=現実)という前提で展開される作品の性格を、そっくりそのまま映画(=虚構)に落とし込んでどうするの、ということです。

息の合った歌と踊りも舞台で体感するから感動するのであって、映画で見せられても特段感動はもたらされません。いくらでもリテイク・編集ができてしまうからです。つまりライブでしか味わえない感動を録画でやろうとしてどうする、ということです。

特殊メイクについても同じことが言えます。舞台という前提があるから「猫を模しているのだな」と肯定できるのであって、映画で見せられても『自分を猫だと思い込んでいる狂人たち』という印象にしか繋がりません。この辺りが「ドラッギー」という批評に繋がっているのかな、とさえ感じました。

ストーリー(が存在したかはさておき)についても、劇中歌がことごとく好みでなかったこともあり、全く興味のないCDをひたすら聴かされているような苦痛がありました。台詞らしい台詞はなく、ひたすら歌が続くため、音楽が好みでないとひたすらに辛いと思います(これはミュージカル全般に言えますが)。

一方でラスト手前のジェニファー・ハドソン絶唱は胸に迫るものがあり、夥しい苦痛の中で一筋の光明を見た思いにさせられました。あの歌唱だけでも一見の価値があるとさえ思うほど素晴らしかったです。

が、そんな唯一最後の余韻も束の間、「猫は犬ではない」「猫は馴れ馴れしいのは大嫌い」などという謎の上から目線による説法が展開され、もう何度目か分からない興醒めを迎えたまま呆気なく終了します。「猫に敬意を」がこの作品を通じての伝えたかったことなのでしょうか。それならご安心ください、本作を観るような人は大概が既に猫に敬意を払っていると思いますから。


長くなりましたが、本当に面白くなかったです。自分なりに面白くなかった理由を書き連ねたら長くなった、そんな感じです。あまりの酷評の量にかえって興味をそそられ鑑賞に至りましたが、それも納得の出来栄えでした。


なお今さらながら断っておきますが、本稿は映画キャッツへの感想であり、キャッツそのものの批評ではありません。きっとミュージカルの方は素晴らしいのだろうな、と思っています。

 

(同様の文章をfilmarksにも投稿しています)

30歳について

 

 

30歳になった。

 


つまり、私が自らの頑強たる自由意志にもとづき、この美醜たる娑婆に繰り出したこと、すなわち「産まれた」ことを嚆矢とし、それから太陽が地球を約30回公転したということであり、そのような背景がある以上、「30歳になった」と言っても決して過言ではないだろうし、少なくとも他の誰にも迷惑はかけるまい。道は自らの手と足と、何より確固たる自由意志をもって切り拓いていきたいものだ。

 


そういうことで、何を以って「産まれた」とするか、定義によって変わってはくるものの、医学的とか出生手続きとか、そんな感じのアレに準拠しつつ、ついでなので折角だからとグレゴリオ暦に則ると、どうやら私は30歳と自称しても嘘偽りはなさそうだ。

 

 

然しながら、医学的なのはさておき、出生手続きだのなんだのは、なんとも馬鹿らしいと思う。「人間が産まれた」とはつまり、母親の子宮から美醜たる娑婆へと繰り出したこと以上でも、ましてやそれ以下でもないわけで、それをわざわざ、顔も知らぬどこぞの連中にその旨を提出しないことには、どうやら「産まれた」ことにはならないらしい。はっきり言ってこれは馬鹿げている。

 

 

事実、なんて度し難いほどに馬鹿なことだろう、考えてもみなさい、私は私、君は君、こうして生きていることとは、「生きているという感覚があること≒この認識」が全てであって、それ以外はおしなべて些事だとは思わないか、自らを自らであるとするほかに、何が自らを自ら足らしめるというのだ、過去は過ぎ去りもうあらず、未来は来らず未だにないのだ、ときに『誰も知らない』は視聴したか、是枝裕和監督による国産映画だ、どこぞのアホな連中に「産まれましたよ」の旨を提出しなかったことによって生じた、哀しく寂しい話だ、あれは実に素晴らしい映画だが、同時にまったくクソな話だ、どこぞのアホな連中は浅薄な正義感を盾に、当事者の思いや人格を踏み躙り、生き物をシステムの、レッテルの、カテゴライズの檻に投獄する行為に耽っているのだから、これはいかにもたまったものではない、同監督作品の「万引き家族」が記憶に新しいと思うが、そちらもまた素晴らしく切なく、そしてクソな話なので、観ることをオススメする。

 


さて、天に唾棄したような、捉えようのない虚無感が私を苛むので趣向をガラリと変えたい。

 


ガラリ、なにげなく使用するこの言葉(オノマトペ)の語源は、一説によると、歌舞伎の怪談物で、戸板の前に立っていた普通の女性が、寄りかかった戸板がぐるっと回ると、恐ろしい幽霊が戸板の前に立っているように変わるという、からくりを利用する演目があるのだが、そこからの連想とされているそうで、偶にはYahoo!知恵袋も役に立つのだなと思った次第である、なにせYahoo!知恵袋といえば、普段はインターネットの片隅にてじっと息を潜めているような、まさしく魑魅魍魎というべき者どもが跋扈しており、その様相たるや、まさしく知恵の泉なき不毛の地であり、不遜こそが力(ちから)で、尚かつ力(ちから)こそが世界の理であるから、せっせと苗を植えたところで、力(ちから)を所有する者の前では無力、瞬く間に枯草と化すのである。それが故、辺り一面ぺんぺん草すら生えてこず、大地はひび割れ、おまけに日照り続きときたものだから、そのような惨たる環境下において、一粒の知恵の種を得たことについては、まったくもって僥倖と言うほかない。

 


兎角、ガラリとはそういう語源であるから、ここはガラリと趣向を変え、一般的に「キリが良い」とされる30歳を迎えたそんな折の、心境の変化を書き連ねようか。

 


これは特にないのである。

 


そして文頭では、あたかも自らを「自らの意思をもって母の子宮より出でし、産まれながらの勝者」とでも吹聴せんばかりではあったが、そういえば私は、出産時は帝王切開であったことを思い出した。

 

 

そんなことだから、今後とも人様の手を借り足を借り、誰かの切り拓いた道をやおら歩いて生きていこうと思った。揺り籠から墓場までな。